ドイツ刑法学研究ブログ

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2018年 02月 19日

パヴリック市民の不法を読む会

2月19日(月曜日)の13時から
パヴリック市民の不法を読む会→前回
S. 394 - S. 397
本日のテーマ1:Puppeの故意論の検討(続き):特に無関心の取り扱い(S. 394+S. 394 f. Fn. 808)
無関心と答責性: Jakobs, FS Schreiber, S. 954
行為者の事実的-心理学的な状態→「理性者間のコミュニケーション内での態度の表現価値」へのパラダイム転換(Puppe, ZStW 103 (1991), 15)
【まとめ】客観的な基準を手掛かりにして評価される場合のみ可能(Pawlik, S. 394)
本日のテーマ2 現行法における無関心の取り扱い (Pawlik, S. 395)
but: そのような(無関心の故意との)同置を故意に関する現行法の規定[§ 16 StGB]に読み込むことは困難
実質的には、この同置は例えばドイツ刑法17条において免責されえない禁止の錯誤の事例としてに対して明示的に指示されているが(この点につき詳細は、S. 407)、
刑法16条1項1文:故意処罰を否定→不整合(このことは、すでに上記現行法上の規定が施行されるずっと前から警告されていた。例えば、Beck, Unrechtsbewußtsein, S. 35.- 現代の文献から、Jakobs, AT, 8/5a f.; ders., Studien, S. 104 f.; ders., Fahrlässigkeitsdelikt, S. 8; ders., GS Armin Kaufmann, S. 281; ders., ZStW 101 (1989), 529 ff.; ders., GA 1996, 267; ders., GA 1997, 556 f.; ders., ZStW 107 (1995), 862; ders., ZStW 114 (2002), 584 ff.; ders., FS Schreiber, S. 950 ff.; ders., Schuldprinzip, S. 20; ders., Zurechnung, S. 62 Fn. 7; ders., FS Rudolphi, S. 17 ff.; González-Rivero, Zurechnung, S. 172 f.; Heuchemer, Erlaubnistatbestandsirrtum, S. 102 f., 264 f.; Hsu, Doppelindividualisierung, S. 126 f.; Manso Porto, Normunkenntnis, S. 43 ff., 132 f.; Hruschka, FS Bockelmann, S. 431; Lesch, JA 1997, 802)→Jakobs, FS Schreiber, S. 955からの引用も参照
立法上の修正:主観的帰属の解釈論の重大な価値論上の不整合からの解放
【まとめ】Pawlikは、無関心を故意とすることは現行法の解釈論としては困難だが、これを立法論的に修正しないと主観的帰属の解釈論において重大な価値論上の不整合が解消されないとする(同旨、 LK-Vogel, Vor § 15 Rn. 70; NK-Puppe, § 16 Rn. 2; Roxin, AT 1, § 12 Rn. 97; Duttge, Bestimmtheit, S. 368 Fn. 63; T. Walter, Kern, S. 244 f.; Gaede, ZStW 121 (2009), 262 f.; Kindhäuser, FS Eser, S. 356 ff.; Müssig, FS Jakobs, S. 432; Vogel GA 2006, 388.)↔︎反対説(ドイツの現行法においても同置可能とする見解) Hsu, Doppelindividualisierung, S. 202 ff.; Jakobs, System, S. 57; ders., ZStW 114 (2002), 597 f.; Rinck, Deliktsaufbau, S. 382; wohl auch Kawaguchi, FS Jakobs, S. 265(この記述は日本法の下での同置可能性を論じたものであり、ドイツ法の下での解釈については留保されている)。
【関連条文】Strafgesetzbuch (StGB)
§ 16 Irrtum über Tatumstände
(1) Wer bei Begehung der Tat einen Umstand nicht kennt, der zum gesetzlichen Tatbestand gehört, handelt nicht vorsätzlich. Die Strafbarkeit wegen fahrlässiger Begehung bleibt unberührt.
(2) Wer bei Begehung der Tat irrig Umstände annimmt, welche den Tatbestand eines milderen Gesetzes verwirklichen würden, kann wegen vorsätzlicher Begehung nur nach dem milderen Gesetz bestraft werden.
§ 17 Verbotsirrtum
Fehlt dem Täter bei Begehung der Tat die Einsicht, Unrecht zu tun, so handelt er ohne Schuld, wenn er diesen Irrtum nicht vermeiden konnte. Konnte der Täter den Irrtum vermeiden, so kann die Strafe nach § 49 Abs. 1 gemildert werden.
本日のテーマ3:ヘーゲルの間接故意の擁護(S. 395 ff.)
間接故意論(NK-Puppe§ 15 Rn. 68; Jakobs ZStW 114 [2002], 589 ff.は、自説と間接故意論との類似性を明示的に強調)、特にヘーゲルの間接故意論が擁護されるべきとする。
ただし修正が必要
問題点:あまりに不特定
一般的な行為理論→特定の犯罪理論上の諸帰結を導き出すことができない
「ヘーゲルの論理上の基本カテゴリーである矛盾と止揚への依拠からのみ刑罰正当化の問題とは無関係の犯罪概念を構想することが不可能であるのと同様に (上記、S.56 f.)、行為者が理性的な者であれば見誤ってはならなかったであろうことを見誤ったということそれ自体からは、その行為者を法敵対者としての刑法上の取扱うことに値するということは導出しえないのである 。」(Pawlik S. 395)
「愚かさと不知は倫理的に、そして法的に無色である」(Exner, Wesen, S. 97) 。
「なぜ行為者が当該の誤った評価へと至ったのか」が重要
無能力の解釈:「その諸原因は、それらが社会的に行為者の「仕業」として解釈されるために、その行為者に負責的に帰属されうるのかどうか、あるいは無能力が、当該の者のDispositionから切り離され、運命とみなされる諸要因に依拠するのかどうか」(これとパラレルの評価としてS. 345)
この意味において負責的:無関心と無思慮
【まとめ】①行為者がすべての理性的な者にとっては明らかであることを見誤ったこと+②この誤ちが無関心または無思慮によることという要件を満たす場合
その「「無神経さ(Dickfelligkeit)」(Beling, Unschuld, S. 34) が法敵対的なものとして行為者に帰属されうるし―そして、されなければならない!」(Pawlik, S. 397)




S. 394 f. Fn. 808
テーマ1の結論はJakobs説と同じ
基礎的なものとして Jakobs, ZStW 114 (2002), 586 ff.; 最近では ders., System, S. 56 f.; ders., RW 2010, 306 ff.;
さらに González-Rivero, Zurechnung, S. 177; Heuchemer, Erlaubnistatbestandsirrtum, S. 282 ff.; Müssig, Mord, S. 182; ders., FS Jakobs, S. 431 f.; Voßgätter, Handlungslehren, S. 186; Hsu, Doppelindividualisierung, S. 140 ff., 178, 190 ff.; ders., FS Puppe, S. 540 ff.; Kawaguchi, FS Jakobs, S. 259 ff
最近の文献:類似の見解
(1)Rinck説:法敵対的として行為者に帰属される規制内容の不知に基づいて、規制によれば法的に重要であるとされる知覚を行わない行為者に免責の可能性を否定=自己の置かれたの法状況についての誤った判断が法敵対的なものとして評価されるべきであれば、そこから生じる事実盲目性も同様(Rinck, Deliktsaufbau, S. 380 f.)。
【Pawlikの評価】この考慮自体は説得的だが、狭すぎ:大抵の問題事例は状況が異なる、行為者は原則的に特定の結果惹起が刑法上禁止されていることをよく知っているのである。自己の行為がそのような結果の惹起に至らないであろうということを前提(自己の振る舞いが有する侵害の潜在的可能性を甚だしく過小評価/危険判断を基礎づける行為事情の不完全な知覚)←このような諸事例においても行為者態度を法敵対的なものとして段階づけることが必要
(2)Bleckmann説:行為者が表象したもの、あるいは意欲したものが重要なのではなく、コミュニケーション上の再構成によって理解されうるものだけが重要(Bleckmann, Strafrechtsdogmatik, S. 80 ff., 142, 154, 176 f.)。
【Pawlikの評価】一貫した客観化戦略を支持するように見えるが、ところが最も扱いにくい故意形式である未必の故意についてのみこの原則を適用せず、むしろ全く伝統的に行為者の表象と内心上の態度決定を援用し、その「結果の判断、つまり事態がうまく進むのだろうかどうか、あるいはどうでもいいのかどうか」という基準(aaO, S. 150)によるのは一貫しない。
(3)Bung説:無関心という劇的な形式において現れる認識しようとしないこと(Nichtwissenwollen)が「構成要件結果の未必的意欲と十分な根拠を持って同置しうる」(Bung, Wissen, S. 198)。人間の行為の解釈の基礎:「我々はそれを総じて理性的な人格の、ある程度理性的な見方の理性的な表明とかかわらせなければならない」(aaO, S. 206)という想定→総じて理性的な人格によって「非合理的な処理メカニズム、抑圧、希望」(Puppe, Vorsatz, S. 40)を閉ざすことが期待されるだけでなく、それが社会的に全く理解できない認識の遮断によって支配されえないこともまた期待されるのである。
【Pawlikの評価】、このこととBungの中心的なテーゼ=故意のより厳格な処罰は、過失行為者と違い「結果を意欲している」(aaO, S. 270)ということから正当化されるというテーゼは矛盾。事実に全く盲目的な行為者もまた結果を意欲していないにも関わらず、評価的な観点の下では、その行為と、結果の意欲を持って行為する行為者の態度を同置することが必要である場合、後者のより厳格な処罰根拠は意欲ではありえない。比較のための第三項(tertium comparationis)に欠けるので、このような事例類型の比較可能性について彼の主張は説得的ではない(結論的に同様の批判としてGreco, ZIS, 2009, 820)。
(4)Frisch説:当該行為がリスクを実際に内在しているのかいないのかを気に掛けることなく、ある一定の行為へと決断する行為者→故意処罰=行為者が特定の状況に関する基本決定に基づいて、個々の状況において生じるリスク考慮を、行為者が原理的に特定の規範に関連するリスクを秘めているところの行為を遂行することも決断しているために、もはや全く追求しない事態も含む(Frisch, Vorsatz, S. 235 f.; 同旨、SK-Rudolphi, § 16 Rn. 45)。さらに差し迫った財に対する事前の一般的な立場に基づいて規範に関する危険が存在することへの考慮に至らない行為者も故意処罰することも想定可能(aaO, S. 242)だが、そこまでは、現行法上は無理だとし、現行法規をその限りで「乗り越えることのできない障壁」とみなしている(aaO, S. 242)。
【Pawlikの評価】最後の点をzu Rechtとしている。
S. 395 f. Fn 813における指摘【未遂不法に関する重要な指摘】
本書で提案された故意の内容の新たな規定は、行為者の免責的な特別表象に作用するだけでなく、負責的な特別表象にも作用→未遂不法は、行為者の視点だけでなく、客観的、理性的判断によっても実行行為として理解されうる場合のみ、存在する(Jakobs, GS Armin Kaufmann, S. 279)。
ヘーゲルの間接故意論の問題点 S. 396 Fn. 816
へーゲルが間接故意カテゴリーを広く認める傾向にあることは、間接故意カテゴリーは、多くの先行者と同様に彼においても、versari in re illicita論と類似性という点である(同旨 Lesch, Verbrechensbegriff, S. 148 f.; Safferling, Vorsatz, S. 21[ヘーゲル間接故意論の検討、versari論との類似性につきLeschに賛成する一方、結果責任に陥るものではないとする]; ヘーゲルに好意的なのは Hsu, Doppelindividualisierung, S. 199). 例えば、Hegel (Vorlesungen Bd. 3, S. 368 f.)参照:「私は行為することによって、私は私自身の身を不幸にさらし、不幸が起因しうるものを自ら行えば、すなわち、このことが私への権利を有すれば、私自身の意欲の定在である」‐ヘーゲルにおけるのと類似の考慮は、比較的最近の分析的行為理論に見出される。
*アメリカの哲学者ドナルド・デイヴィドソン(Donald Davidson)は、あらゆる解釈は、基本的な理性の想定に依拠していることを証明(Davidson, Wahrheit, S. 199):行為予期に適合させることが不可能であるところの者→他者管理の下へ
【Pawlikの評価】このことは、正しいが、が行為刑法の枠組みにおける帰属可能性の検討において問題となる事例ではない。、そこでは、一般的な無思慮さへの逆推論を許容しないところの、認知の誤りと評価の誤りが問題なのである。理性的な人々もまた誤りを犯すのである。
間接故意論への批判への反論 S. 397 Fn. 820
そのような、類似の形式において多くの外国の法秩序(Stuckenberg, Vorstudien, S. 434 f.における指摘と特にアメリカのrecklessnessという法形象について、Arzt, GS Schröder, S. 142 f.参照)や「欧州連合の経済的利益を保護するための刑法上の規制のCorpus Juris」(この点につき、Perron, FS Nishihara, S. 151)から周知の同置に対して、それは①心情刑法を弁護するものだという批判(LK-Vogel, Vor § 15 Rn. 70 [もっとも、事実盲目性と故意とを同置する考えに対してはるかに好意的なのは、ders., § 15 Rn. 127 und § 16 Rn. 2]; ders., GA 2006, 389; T. Walter, Kern, S. 115; Gaede, ZStW 121 [2009], 269 ff.; Prittwitz, FS Puppe, S. 829)や
②刑法においては「自由刑の、現実の人間への実際の科刑が、実際に実行された行為ゆえに」問題であることを見誤っているとする批判(Sacher, Sonderwissen, S. 178)があるが「(zu Unrecht)」とする。評価基準の客観化に対して、それは心情刑法と全く逆である。すなわち、行為者は行ったことに対して処罰され、ただ、自己の態度の意味に関する解釈権限がはく奪されるのである(同旨、Jakobs, RW 2010, 308; Kawaguchi, FS Jakobs, S. 263)。無関心と無思慮に基づく誤った評価は行為者の責任を免責しないことは、(行為事情の)過失領域において既に主張されているのであり(上述、S.345)、そこで心情刑法に陥っているわけではなく、そこで正当であることは、ここでも是認すべきであろうとPawlikは反論している。
Puppeの見解に対する評価→ 故意に関する一考察(五)(玄)
>インゲボルグ・プッペの見解
1 プッペの問題意識もヘルツベルグと同様に,通説による行為者が一定 の客観的危険の存在を正しく認識しているにもかかわらず,行為者の心理 状態如何によって故意の排除されうる場合を承認するという帰結に反対し, 蓋然性説を再構成することによって,未必の故意と認識ある過失の限界づけ問題を解決しようと試みている[76) Ingeborg Puppe, Der Vorstellungsinhalt des dolus eventualis, ZStW 103 (1991) Heft 1, S.1ff.]。
2 プッペによれば,従来の意思説にしろ表象説にしろ,同様の誤りを犯 してきたとする。すなわち,これまでの学説はこの問題を行為者の内心上の事実だけに着目してきた。しかし,このような内心上事実にとどまって いる限り,法秩序にとってなんらかかわりも有さないのである。法共同体 は刑法における人間像を,ある体験(Erlebnisse)を自己の内心上の処理 に応じて行為する客体として想定しているのではなく,彼が責任能力者で あると認められる限り,格率(Maximen)に従って行為し,規範の有効 性および規範の期待に応じて決定することで,コミュニケーションに基づ く社会生活に参加する能力のある理性的・自律的人間として想定している。 ここでは事実的・心理主義的人間像(これは意思説の前提とする功利主義的人間像)から理性的規範的人間像への転換が語られている。そして法秩 序は,このように想定された人間が彼の行為によって「結果が生ずべきで ある,あるいは生じてよい(Der Erfolg soll bzw, darf sein.)」ということを表す場合に故意に行為したとして処罰するのである。つまり行為者の認 識と関連した彼の態度が結果に対する意思決定の外界への表れでなければ ならないのである[77) Ingeborg Puppe, a. a. O., S. 14f.)。
このような行為者態度の表現価値(Ausdruckswert)が,結果を発生さ せてはならないという法秩序の評価と直接矛盾する場合,この直接的な矛盾が意図と直接故意を特徴付けるとし,更に行為者の態度を,法秩序と直接矛盾する彼の行為格律の表れとして規範的に解釈することが未必の故意 と認識ある過失の正当な区別に対する基準をも形成するとプッペはするの である[78) Ingeborg Puppe, a. a. O., S. 15.]。
[94 (1450)]
3 では,このような行為者の態度を解釈するに際して,如何なる範囲で 行為者の心理状態を考慮すべきなのかとプッペは問い,これは情動犯の検討から明らかになるとする。つまり情動犯の場合,一種の興奮状態において犯罪を行うのであるが,犯行後,行為者は自己の行為を悔やんだり,悲 しんだりすることは経験上よくあることであり,このような行為者の内心 に基づいて判断すれば,情動にかられて行為する者の行為は行為格律の表 れとして受け入れられないという事を示すことになりうる。つまり,この ような弁識能力を害する情動の効果を考慮する場合,行為者態度は客観的 には明らかに他人の法益に対する侵害の意義を持つが,しかし侵害を意図 したとする判断の表れではないということになるのである。仮にこのこと を故意の認定において考慮すれば,それは情動の免責的要素を2重に評価 することになり妥当でない。したがって,情緒的要素は故意の判断におい て考慮されるべきでなく,それは責任の段階において評価されるべきなの である[79) Ingeborg Puppe, a. a. O., S. 15f.]。
それゆえプッペは法秩序と矛盾する当為判断の現れとして規範的に方向づけられた行為者態度を解釈するための事実上の基本となる素材 (Ausgangsmaterial)としては,行為者の表象内容,つまり行為者が知りつつ創出した侵害危険の性質が残されているとする。そしてプッペはこの ような表象内容による区別,すなわち故意危険と過失危険の区別について以下のように述べる。すなわち「危険の創出において,特定の個々の行為者だけでなく,一般的基準に応じて合理的,理性的に行為する者が曖昧で なく真摯に危険が実現しないだろうということを信頼することのできる危険」を過失危険とし,それに対して「合理的な行為者が危険の実現を了解している場合にのみ作り出すような危険」を故意危険とし,これらを区別するのである[80) Ingeborg Puppe, a. a. O., S. 17f.]。 このように危険の内容に応じて故意と過失を区別しようとする見解として蓋然性説があるが,しかしこの見解はその区別基準を量的な蓋然性に求めたがゆえに,そのような基準の恣意性が批判された。しかし危険の重大 [95 (1451)] さ,つまり故意危険を具体的,直接的に受け入れられる基準に基づかせる 場合,蓋然性説は決して合理性の欠けるものではない。プッペによれば重大な危険という概念は単に結果発生の確率の大小だけではなく,侵害経過 の具体的な典型性を備えていなければならないとするのである。このよう な侵害経過の典型性(Typizitat)は,一般的に妥当する理性的な基準に 応じて行為する行為者であれば行為を止めるか,あるいは結果を受け入れ るかという選択をせまられる程度のものをいい,これは例えば長時間首を 絞めることや鈍器で頭部を思いっきり殴ること,あるいは刃物による身体 あるいは頭部への刺傷などの場合に当てはまるとするのである。そしてプッペはこのような自己の態度の典型的な侵害意義の提訴機能を無視して 行為する者は,たとえ如何なる心理的なメカニズムであっても,故意に行為したものであるとするのである[81) Ingeborg Puppe, a. a. O., S. 21.]。
4 最後にプッペは未必の故意と意図の関係について言及している。プッペによれば,彼女の加重危険についての認識(Wissen um eine qualifizierte Gefahr)としての未必の故意の構想は直接故意の基本思想を更に発展させたものであるとする。つまり直接故意の第2段階における確知(Wissentlichkeit)が意図されてない結果と意図を結びつける機能を持つように, ここで述べられた故意危険もまた意図と意図されていない結果とを結びつける機能を有するのであり,その結果行為者の態度は構成要件上の特定の 規範と矛盾する行為格律の表れとして解釈されるのである。ただし,意図の場合,意思は構成要件上の結果に結び付けられているので,結合要素を 必要としない。行為者の事実上の意思との結合が重要とする限りでは故意の意的要素は依然として重要なのである。しかしここで重要なのは意思が 存在するということを根拠付けることではなく,意欲されていない結果を 意思に基づいて帰属する事であるとプッペはするのである[82) Ingeborg Puppe, a. a. O., S. 39.]。
5 以上がプッペの見解であるが,彼女の見解はこれまで検討してきたい わゆる規範的危険説の論者,特にヘルツベルグと問題意識を共有するもの であるが,彼女はこれまでの規範的危険説が暗黙のうちに前提としてきた[96 (1452)]自律的・理性的人間像を明示化し,これを前提に,故意と過失の区別基準を,次のように規定したのである。すなわち自律的・理性的な人間であれば,当該行為者の行為が結果発生に対する有効な方法であるとみなす程度のものかどうかとし,これが肯定されれば当該行為者に故意が認められ,これが否定されれば過失に過ぎないとしたのである。
6 しかし彼女の提示した故意と過失の区別基準に対しては批判も存在する。ロクシンはプッペの故意危険論は故意の処罰範囲が一方では広がりすぎ,他方では狭すぎるとする。まず,処罰範囲の狭さに関して,例えば, AがBを拳銃で殺そうと意図し発砲しようとするが,Bは命中の現実的な 可能性はあるもののBの立ち位置からすればその可能性の低いとみなして いる場合にプッペは意図事例においても故意危険を行為者が意識している 必要があるとするために故意は否定されるのであるが,しかしこれは妥当ではないとするのである。
次に,処罰範囲の広さに対する批判については,非常に心優しく,しつけであっても子供に対する暴力を断固として拒否していた父親が,彼は空手の有段者であるが,自分の息子の泣き声に腹をたて咄嗟に手刀で後頭部 などを殴打し,直後に蘇生措置などを行ったがその甲斐なく,死亡させた という場合,プッペの立場からすれば故意危険は肯定されるにちがいなく, 故意犯が認められることになる。が,しかしロクシンはこのような場合に まで殺人の故意を認めるのは行き過ぎであり,現に BGH はこのような場 合に過失致死を認めているとするのである[83) Claus Roxin, Zur Normativierung, des dolus eventualis und zur Lehre von der Vorsatzgefahr, Rudolphi-FS, 2004, S. 244ff, S.249 ff, S.251, S.252.]。
このようにプッぺ,さらにはヘルツベルグにしても,故意と過失の区別を客観的・規範的な危険の相違に基づく認識内容によって試みる見解は認識内容となる危険の質を十分説得的に規定しえていないという点で共通の問題点を有しているように思われる。
7 以上,規範的危険説の展開を概観してきたわけであるが,これらの見解に共通するのは,故意を規定するのは知的要素であって,そのほかにさ らに意的要素は必要ではないということである。規範的危険説はさらに行[97 (1453)]為者の認識内容を結果発生の客観的・規範的な危険として規定することで, いわゆる小心者事例において通説と異なり故意を無条件に否定する点でも 共通するのである。このような見解の背景には戦前の消極的な意的・無関 心な感情関係説と同様に刑法は自律的・理性的人間を前提とし,このことから故意犯を,他者の法益(規範)を意識的に尊重しない者,法益侵害(規範違反)に対する意識的な無関心者として特徴付けるという考え方が 存在している。すなわち,プッペが明確に指摘したように,刑法が前提と する人間は理性的・自律的な存在としての人間であり,このような人間は 社会生活において自己利益を追求するに際して他の法益を尊重してこれを 侵害しない限りにおいて行うのであるが,このように想定された人間であれば一定程度の結果発生の危険を認識すれば,他の法益を尊重し,これを侵害しないよう当該行為を回避するし,また回避しなければならないので ある。にもかかわらず,そのような場合に行為を遂行したという点に故意犯としての重い責任非難の根拠を見出されるのである。このような故意犯 に対する人間像において新たな認識説,あるいは規範的危険説は共通しているのである。
8 しかし,このような見解内部においても相違は存在した。すなわち故意と過失の区別を認識の質によって区別する説と,認識内容によって区別する説に大きく区分されたのである。そして両者は無関心事例,結果不発 生への非合理的な信頼事例に対する取り扱いにおいて結論が相違した。前者は,「認識」に判断的性質を求めることで両事例においてそのような判 断的性質が存在する(ヤコブス),あるいは同視しうる(フリッシュ)限 りで故意犯を認めるのに対して,後者は行為者が結果発生のいわゆる故意危険を認識(判断的性質を求めない)していれば,両事例において常に故意が認められるのである。これは例えばある者が激情のもとに相手は死傷したという場合,ヤコブスやフリッシュの見解によれば,結果発生に対する一定の判断を求めるため,そのような判断が結果発生の認識に伴っていなければ故意犯は認められないのに対して,ヘルツベルグやプッペの見解[98 (1454)]によれば,このような場合であっても行為者は殺人の故意犯として処罰されうるのである。では,どちらの見解が妥当なのかというと,認識の質を問題とする見解 (ヤコブス,フリッシュ)が妥当であるように思われる。というのも,ヘルツベルグ,プッペの見解は,故意と過失の区別基準それ自体の不都合性 もさることながら,より本質的な点で問題があるように思われるからである。すなわち,行為者は自己の行為結果を単に意識において把握している のみならず,それに加えて結果発生の一定の判断をも伴っていて始めて, 当該行為をやめるのか,やめないのかという選択に直面するのであり,それにもかかわらず行為をやめなかったという点に故意犯としての重い責任 非難の根拠が見出されるのである。逆に言えば,ヘルツベルグやプッペの ように結果発生の一定の判断を「認識」に必要としなければ,行為者は当 該発生結果を未だ自ら選択したとは言えず,それゆえ彼に故意犯としての 重い責任非難を負わすことは妥当ではないのである。このことから認識の質を問題とする見解が妥当であるが,上述のようにフリッシュの見解には 理論的にも実際的にも問題点を有していたため,これを支持することはで きず,最終的にはヤコブスの見解が現在の学説においてはもっとも優れているように思われるのである。
Donald Davidson, Wahrheit und Interpretation
Herausgegeben von Dieter Henrich und Niklas Luhmann. Redaktion: Friedhelm Herborth. Übersetzt von Joachim Schulte
1 Bedeutungstheorien und lernbare Sprachen. (1965).
2 Wahrheit und Bedeutung. (1967).真理と意味
3 Getreu den Tatsachen. (1969). 事実との一致
4 Die Semantik natürlicher Sprachen. (1970).
5 Zur Verteidigung von Konvention. (1973).規約Tの擁護
6 Zitieren. (1979).
7 Sagen, daß. (1968).そう言うことについて
8 Modi und performative Äußerungen. (1979).叙法と行為遂行
9 Radikale Interpretation. (1973). 根源的解釈
10 Der Begriff des Glaubens und die Grundlage der Bedeutung. (1974). 信念、および意味の基礎
11 Denken und Reden. (1975). 思いと語り
12 Replik auf Foster. (1976).
13 Was ist eigentlich ein Begriffsschema. (1974). 概念枠という考えそのものについて
14 Die Methode der Wahrheit in der Metaphysik. (1977). 形而上学における真理の方法
15 Realität ohne Bezugnahme. (1977).
16 Die Unerforschlichkeit der Bezugnahme. (1979). 指示の不可測性
17 Was Metaphern bedeuten. (1978). 隠喩の意味するもの
18 Kommunikation und Konvention. (1982).コミュニケーションと規約
Der Erlaubnistatbestandsirrtum, Reihe „Strafrechtliche Abhandlungen, begründet von Prof. Dr. Eberhard Schmidhäuser, hrsg. v. Prof. Dr. Dr. h.c. (Breslau) Friedrich-Christian Schroeder in Zusammenarbeit mit den Strafrechtslehrern der deutschen Universitäten, Neue Folge Band 157, Duncker & Humblot, Berlin (Rezension der Dissertation von RA Dr. Heuchemer durch Herrn Prof. Dr. Bernd Schünemann erschienen in GA 2006, Heft 12, S. 777 ff.)
Inhaltsverzeichnis
1. Abschnitt: Irrtum und subjektive Zurechnung: Über den gegenwärtigen Zustand der Irrtumslehre - Die Defizite der bisherigen Irrtumslehre: Dogmatica se ipsam alet - Das Problem des allgemeinen Zurechnungssubjekts der Irrtumslehre - Der Erlaubnisbestandsirrtum als Schlüsselstelle der Irrtumslehre - Ansatz und Aufbau der Arbeit

- 2. Abschnitt: Grundlagen der Irrtumszurechnung: Ansatzpunkte der Revisionsbedürftigkeit des etablierten Systems der Irrtumslehre - Rechtsprechungsübersicht zu Fällen an der Grenze von Rechtfertigungsirrtum und -exzess - Zwischenergebnis der Analyse - Ausgangspunkte der Befreiung der Irrtums- und Schuldlehre von den Zwängen des formalen Verbrechenssystems: Eine Zwischenthese

- 3. Abschnitt: Der Erlaubnistatbestandsirrtum und für seine Lösung relevante Nachbarkonstellationen der Zurechnung zu Schuld und Irrtum: Notwendige Vorüberlegungen anhand des Notwehrexzesses (Par. 33 StGB) - Der Erlaubnisirrtum - Der Erlaubnistatbestandsirrtum

- 4. Abschnitt: Zusammenfassung der Ergebnisse; Schlussbetrachtung: Der Erlaubnistatbestandsirrtum und seine Nachbarprobleme als Entscheidungsfragen der Irrtumszurechnung - Der funktionale Neuansatz der Irrtumslehre auf der Basis der strengen Schuldtheorie - Konsequenzen für das Gesamtsystem der Irrtumslehre - Literaturverzeichnis - Sachwortverzeichnis
*Rinck, Klaus, Der zweistufige Deliktsaufbau. (Strafrechtliche Abhandlungen. Neue Folge; SRA 131) Duncker & Humblot, Berlin; 2000
Inhaltsübersicht:
1 Das Prinzip der geringstmöglichen Interessenverletzung: Ziel der Untersuchung - Das Rechtsgut als zentraler Begriff der Strafrechtsordnung - Die Zustimmung des Betroffenen zur Gutsbeeinträchtigung - Die Bedeutung der Rechtfertigungsgründe für die Strafrechtsordnung - Die objektive und die subjektive Ebene des Unrechts - Ergebnis zu 1 -
2 Der Irrtum über den Rechtfertigungssachverhalt: Einleitung - Die strenge Schuldtheorie - Die rechtsfolgenverweisende oder rechtsfolgeneinschränkende Schuldtheorie - Die unselbständige Schuldtheorie (Jakobs) - Die kombinierte Anwendung von 49 Abs.1 und 2 (Krümpelmann) - Die eingeschränkte Schuldtheorie - Ergebnis zu 2 -
3 Der umgekehrte Irrtum über den Rechtfertigungssachverhalt: Einleitung - Die Lehre von der objektiven Rechtfertigung - Die Vollendungslösung - Die Versuchslösung - Die Gestalt des subjektiven Rechtfertigungselementes bei der Vorsatztat - Subjektive Rechtfertigungselemente bei Fahrlässigkeitsdelikten- Zweiaktige Rechtfertigungskonstellationen - Ergebnis zu 3 -
4 Die neue Konzeption des zweistufigen Deliktsaufbaus: Einleitung - Die Gegensatzpaare der L.v.d.n.T. - Die Behandlung normativer Tatbestandsmerkmale - Die Beschaffenheit des Unrechtsvorsatzes - Die Auseinandersetzung Hirschs mit den Argumenten der Lehre von den negativen Tatbestandsmerkmalen - Andere gegen einen zweistufigen Deliktsaufbau vorgebrachte Argumente -
5 Gesamtergebnis der Untersuchung
Die vorherrschende strafrechtliche Irrtumsdogmatik leidet in einigen Bereichen, vornehmlich im Hinblick auf die Behandlung von Fehlvorstellungen über den Rechtfertigungssachverhalt, an erheblichen Friktionen. Die Entstehung einer Unzahl von Theorien dokumentiert die zahlreichen Versuche, die Konstellation des sog. "Erlaubnistatbestandsirrtums" adäquat darzustellen und zu lösen. Ihre Analyse führt zu dem bemerkenswerten Befund, daß die nach herkömmlicher Meinung dogmatisch stringenten Ansätze zu als unbillig empfundenen Ergebnissen führen, während im Gegensatz hierzu die mit akzeptablen Resultaten verbundenen Lösungen zu Analogiekonstruktionen Zuflucht zu suchen gezwungen sind, die ihren theoretischen Überbau desavouieren. Als Ursache dieses Mißstandes erkennt der Autor das überkommene Dogma eines dreistufigen Deliktsaufbaus.
Der vorliegenden Arbeit liegt die Einsicht zugrunde, daß der tatbezogene Teil des Strafrechts durch einen grundlegenden Imperativ beherrscht wird, das Prinzip der geringstmöglichen Interessenverletzung. Die konsequente Durchdringung dieses Gedankens führt zu der Erkenntnis, daß das Unrecht der Tat einen homogenen Bereich bildet. Eine adäquate Abbildung dessen vermag nur der zweistufige Deliktsaufbau zu geben. Die logische Folgerichtigkeit und praktische Tauglichkeit dieses Ansatzes erweist sich insbesondere in seiner Anwendung auf die in der Auseinandersetzung stehenden Irrtumsprobleme.


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by strafrecht_at | 2018-02-19 23:05


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