ドイツ刑法学研究ブログ

iuscrim.exblog.jp
ブログトップ
2015年 07月 15日

刑法各論学:環境刑法の正当化論

刑法各論学(http://iuscrim.exblog.jp/20516834/)で考察されている構成要件
(1) 要求による殺害
(2) 国家危殆化犯の予備
(3) 大気汚染
環境刑法の正当化論―Kubicielの見解
(1) 法益保護論による環境刑法の正当化?
環境刑法がいかにして正当化できるかという問題は、環境刑法の根本問題であるにも関わらず、これまで十分に論じられてこなかった。この点に関して日本の通説は、既に環境刑法の概念の中に法益保護説を組み込んだ定義づけを行っている。例えば、町野朔は、環境刑法とは「環境を保護するために、それを侵害・危殆化する行為を処罰する法律」 、また今井猛嘉もそれを「環境に関係する法益を保護する手段として、一定の違反行為をした者に刑罰を科すための規範」 と定義し、さらに神山敏雄も、実質的環境刑法概念として、保護法益論との結合を図り、環境犯罪行為を「環境媒体を侵害又は悪用することによって人間の生命、身体、健康、財産、生活上の平穏等の具体的利益を侵害し又はその具体的危険を惹起する行為」と定義し、それに還元できない法令違反行為=行政秩序違反行為として非犯罪化するべきだとしている 。これに対して伊東研祐は、法益保護論に批判的な立場から、刑法に規範形成機能を認めるが、これに対して法益保護論からは、法と倫理(道徳)の区別という観点から、刑法は人に一定の倫理・道徳を押しつけるものであってはならず、伊東説は法と倫理の混同するものであるとの批判がある 。またそもそも刑法によって新たな環境倫理を形成することはそもそも可能かも問題であろう。このように日本における環境刑法の正当化論においても、法益保護論が中心的役割を果たしているといえるが、ドイツにおける法益保護論に対する批判論の中から、環境刑法にも言及しているKubicielの見解を以下に紹介する。
(2)法益保護による環境刑法正当化論への批判
KubicielもJakobsと同様に「法益概念の機能と内容」を批判的に分析し 、「法益保護アプローチは、具体化と補充が必要である」 と結論づける。そして環境刑法に関する法益保護アプローチの主要な3つの見解への批判を試みる。
(a)生態系中心的アプローチ(価値としての環境の保護)
生態系中心的法益論の主張の中核は、独自の価値としての環境の保護という人間非中心主義的思想であり、ここでいう法益は「理念的財」 、それ自体としての価値(Wert an sich)を持つとされる環境そのものである。そして生態系中心主義は、個人より環境を優先するものであり、環境媒体が独立の保護に値する法益なのだから、すべての環境媒体への軽微でない作用が「価値に反したもの」として構成要件該当的になるはずである。このような考え方自体がおよそ維持できないものであるとKubicielは批判する。なぜならば、環境媒体の消費は人間の生活・経済の基本前提なのだから、それをすべて禁止することは不可能だからである。また現代社会における環境は、既に「人間によって経済管理された環境」であり、それは人格的展開の基礎ではあるが、それ自体保護に値する価値ではない。環境刑法構成要件は、絶対的保護ではなく、衝突する諸利益・諸価値の調整の結果を法定したものなのである 。
(b)純粋人間中心的アプローチ(人格危殆化犯としての環境犯罪)
Hassemer やHohmann などの人格的法益論によれば環境媒体は、生命・健康・身体という個人的法益によって機能化され、環境犯罪は人格危殆化犯罪 として理解される。しかし既に大量に発生している環境媒体の配慮のない利用の防止に関して、環境刑法は、社会心理的にもそれを防止する手段として有効ではない。また生命・身体の保護との関係では、著しく早期化されたものとなるし、現行法の規定にはおよそ生命・身体の危殆化と関係のないものがあり、それらの規定が説明できないという問題がある 。Kuhlenも「このテーゼは…現行法と調和しない」 としている。
(c)生態系・人間中心的アプローチ(二元的法益構想)
以上のような両説の問題点を、ドイツの通説は、二元論的法益構想によって解決しようと試みる 。そこでは特に、「将来の人類世代によって居住・利用可能な環境」が保護の対象になるとされる 。これに対してKubicielは、本説は一方で狭すぎ、他方で広すぎると批判する。すなわち、地球温暖化・航空機・自動車による重大なエミッションなどは実際上は不可罰なのに対し、将来の生命の存在に直接関係ないような小規模水域の汚染などは処罰されることになってしまうのである。また環境刑法は、せいぜい現在の環境を保障しうるのみであるということも看過してはならない。法益の侵害・危殆化が処罰が正当化するのではなく行為規範違反が処罰を正当化するのである。
(3)新しいアプローチ:法益論から刑罰論へ
このような問題を抱える法益論からのアプローチには、さらに①実際には刑法による法益保護は達成できないために「環境刑法の危機」へと必然的に導かれるということ および②現行環境刑法の諸規定は、例えば325条のように、一定の法益の保護を目指すというよりも、環境保護と他の経済的・交通政策的利益等の目標抵触を調整しようとするものが多いが、法益保護の強調はこのような実際の立法目的を曖昧にしてしまうということという2つの根本問題がある 。そこでKubicielは、法益論に換えて刑罰論的分析の必要性を強調する 。その際、個別構成要件の解釈においてはしばし威嚇予防(消極的一般予防)の道具として、行政法上の義務違反へのリアクションではなく、この義務の妥当を実効あらしめる手段とする見解がみられる。これに対しては、このような刑罰論からは解釈論的帰結を導くことはできないし、それは責任主義と調和しない刑罰論であるとして、むしろ自由論的に基礎づけられた義務違反へのリアクションとしての刑罰という観点から刑罰の予防モデルを批判した新しいタイプの応報刑論を主張する 。そこからいわゆる行政法従属性の問題についても、むしろさまざまな利益衡量の結果得られた環境行政法上の規範は、同時に刑法的な行為規範でもあるので、その規範の妥当性を維持することを環境刑法の正当化根拠とすることが可能になるとする。また立法者は、いかなる行為に刑罰を科すべきかという決定において一定の裁量の余地を持っているが、その裁量はKindhäuser が適切にも指摘している ように、「合理的に根拠づけ可能な(刑事)政策的正義の構想」に基づくものでなければ「白紙の権力行使(blanke Machtenthaltung)」になってしまうであろう 。そのような構想は「刑法的義務づけによる自由の制約と現実力のある法による人格的自由の保障の双務的関係」 を前提としている。再びKindhäuser の言葉を借りれば「自由のための自由の放棄(Freiheitsverzicht um der Freiheit willen)」 が必要となるのである。したがって「それによれば、正当といえるのは(行為者をも含めた)すべての市民の現実の自由の状態の維持に必要な規範なのである 。そして「公的な環境法は、その規定にによって、自然的リソースの社会福祉的観点に即した利用のための一種の法的なインフラを整備するものであ」り、環境刑法によって保護されるのはそのような制度に基づき「潜在的にコンフリクトが生じうる領域において人格的な自由を可能にする規範」なのである。したがって「第一次的には刑法が保護するのは、環境行政法的な義務の妥当であって、人間や動植物の健康や物の所有ではないのである。」

3.日本の議論との関係
前述のように日本の通説は、法益論からのアプローチを行い、Kubicielと同様に 環境刑法の法益論を3つに分類した上で 、ドイツと同様に人間中心主義/生態系中心主義を総合的に理解する見解 が通説である。また行政法・環境法学者の北村喜宣も環境「法学を議論する以上…人間を中心に考えざるをえない」ので人間中心主義を採用するが、但し「『人間が環境を支配する』という不遜な姿勢であってなら」ず、「『環境に生かされている』『自然に感謝する』『環境容量に配慮しながら活動する』という認識が絶えず踏まれるべきである」 とし、さらに環境基本法(特に3条 )の解釈として「…環境基本法は、人間中心主義の立場に立つことを明らかにしている。法は人類のためにあることから、基本的立場としては適切である」が、「そのうえで、過度の『現在世代中心主義』に陥ることなく、将来世代、生態系、将来の地球を考えた政策を立案・実施しなければならない」 とする。これは実質的には日独の刑法の通説である生態系=人間中心的アプローチ(二元的法益構想)に近いものであり、特に予防原則を志向する環境行政法においては妥当な考え方であろう。しかし問題はそのアプローチによって環境刑法をも正当化できるかということであり、これについてはKubicielが指摘しているように刑罰論的観点からの考察が不可欠であろう。この点については行政従属性の検討の際の前提(環境刑法と環境行政法の関係)において詳しく論じることにする。この点とも関係するが、日本においては、法益保護論だけでは環境刑法は正当化できないという前提に立ったうえで、ドイツの刑法学 と異なり人間非中心主義 ・生態系中心主義的アプローチをとる見解(伊東研祐)があることが注目される。この見解は、法益論の限界を指摘する点 においては、Jakobs、Kubiciel説と共通する面もあるが、Jakobs説とは、特に刑罰による規範の形成力(いわゆる「刑法の人倫形成機能」)を認めるかどうかという点 で、Kubiciel説とは、特に行政従属性に関するスタンスという点 で大きな差異がある。このことは、刑法と社会倫理の関係というより大きなテーマとも関連したものである 。
[PR]

by strafrecht_at | 2015-07-15 09:33 | Kubiciel


<< Michael Kubicie...      Pawlik教授の授業(201... >>